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【大人の発達障害】自己肯定感最低女、社会復帰までの道のり

2023.11.24

私の障害は「広汎性発達障害(自閉スペクトラム障害)」です。

2次障害にうつ・社交不安障害があります。

全て社会人になってから分かったもので、学生時代は不登校などの問題はなく、ストレートに大学を卒業することができました。

現在は障害者雇用の時短勤務で、マーケティングに携わり、ライティングやデザインなど幅広い業務を行っています。

無事就労できた私ですが、大学卒業後のキャリアはボロボロ。

社会人経験もほとんどなく、いわゆる引きこもり状態でした。

社会復帰できたのは、家族のサポートはもちろん、病院・就労移行支援など福祉と繋がれたからだと思っています。

なぜ引きこもりだった私が就労まで結びついたのか、これまでどんな人生を歩んできたのかを紹介します!

プロフィール

私の特性で、苦手なことは3つあります。

✔ 小さいなことに不安を感じやすい(他人の評価を気にするなど)
✔ 口頭ですぐに自分の意見がまとまらない
✔ 先を見通すことが苦手で白黒思考になる


現在は主治医や上司など、何かあれば他の人に相談し、特性への対策を試行錯誤中です。

不安が強く、特性も強く出ていた子供時代

小さい頃から人見知りが激しかったです。

家では予想外なことが起きると癇癪を起こし、よく泣く手のかかる子だったと思います。

癇癪は小学生まで続きましたが、中学から段々減っていき、高校ではほぼなくなりました。

小学生時代も幼少期と性格は変わらず、人見知りがあり内向的。

他人にどう思われているかを常に考え、人に自分の意見を言うのが苦手でした。

ですが好きなことには熱中し、行動力がある方でした。

特に好きだったのは「音楽」で、行事の時に楽器の演奏役に立候補するほど、”人の目を気にせず”熱心に取り組むことができたものでした。

複雑な人間関係が苦手だった中学生時代

私は周囲の影響から受験をし、私立の中学に通いました。

思春期が始まるこの時期から、女子同士の人間関係が複雑になり始め、困りごとが増えていきます。

特に困ったのは「建前」です。

表ではいい顔をしていても、裏では悪口を言っている・・・

そんな姿を見て、何が正しい姿なのか、表と裏の使い分けを察することができない私は理解できませんでした。

周りの女の子は全て偽の姿で敵に見えたので、それからは自分の考えや感情は殺して、敵を作らないように、気を張った学校生活を過ごしていました。

そのせいで家に帰ると、他のことが何もできないほど疲れていた記憶があります。

しかし当時は疲れて動けない状況に疑問はなく、みんな同じ状態で普通のことだと思っていました。

当時困っていたこと

・全部真面目に受け止め、冗談が通じない(建前が分からない)
・自分の意見を求められても、すぐに思いつかない。(臨機応変な対応ができない)
・国語の物語文の感情を読み取る問題が理解できなくなり始める。


この時から自分は周囲と比べ要領が悪いということに気づき、自分がダメな人間であると自責していました。

原因不明の蕁麻疹(じんましん)が出た高校生活

高校時代は高い内申点を維持することに必死で、勉強と委員会活動を積極的に行っていました。

全く無理をしている自覚はなかったですが、身体は耐えきれなかったのか、高校1年生のある日から原因不明の蕁麻疹がでるようになっていました。

当時困っていたこと

・家に帰ると疲れ果てて動けない


高校生になり、周りが学校終わりにアルバイトをやり始める中で、「学校終わってアルバイトする力がどこにあるのか?」ととても不思議でした・・・

このあたりから、「自分は人より怠けているのではないか」と思い、さらに自責が強くなっていきました。

ある意味、視野が広がった大学時代

大学生になっても自己主張は苦手で、相手が不快にならないようにと意識して過ごしていました。

ただ、興味があることを追及するのは子供の時から変わらず、ずっと憧れていた国への留学を実行することができました。

留学を通して、色々な国の人と関わり、日本だけで生活をしていたら会うことのない人々に会って、憧れていた国で好きなことに囲まれて暮らす、まさに理想の生活でした。

ですが、この留学が私の人生に良くも悪くも大きな影響を与えました。

特に「大学卒業→就職」ではない生き方があること、やりたいことに好きなだけ時間を使うことへの魅力にはまってしまいました。

本当にやりたくなかった就職活動

留学から帰ってきて、就職活動が始まります。

しかし就職活動をするのがとても嫌でした。

なぜなら、留学先で「大学卒業→就職」ではない生き方をしている人たちを知ってしまったからです。

また就職活動の独特な文化である、「同じ髪型・同じ恰好」や「会社を褒めるような言い回し」が中学生時代に感じた「建前」の違和感と一致していたからでした。

留学でやりたいことに好きなだけ時間を使うことへの魅力にはまってしまったせいで、好きなこと・やりたいことができなければ、自分の人生は無駄だと考える程、考えが極端になっていていました。(白黒思考が発動)

さらに就職活動で苦手意識を持ったのは「自己分析ができないから」です。

自己分析のやり方を説明されても、自分のことが分からないので、自己分析ができませんでした。

今振り返ると、学生時代に他人から良く思われたいし、敵を作らないように自分の意見を言わず、自身を隠すことが習慣になり、自分は何が得意で苦手なのか分からなくなっていたのだと思います。

それでも周りが就職活動をし始めたことに焦りを感じ、好きなことができるであろう企業を受け、早く就職活動を終わらせたかったので、一番早く内定が出たところへ入社を決めました。

社会人時代:新卒で入った会社を1ヶ月で辞める

世間的に大手と言われる会社に入社をしましたが、1ヶ月で退社してしまいました。

特につらかったことは3つありました。

・育てる環境作りがされておらず、指示が曖昧
・テキパキとした行動が求められる
・各自忙しくしていて、助けを求められる環境ではなかった

その中でも一番辛かったのは、指示が曖昧なのにテキパキとした行動を求められる時でした。

例えば・・・
上司「○○をやってほしい、あと倉庫から○○持ってきて」
私「倉庫の○○ってどこにあるんですか?」
上司「見たら分かるよ!」

倉庫で指示されたものを持ってこようとしましたが、情報量が多い倉庫の中から指定されたものを探すのは一苦労。

さらには急いで行ったつもりでも、上司に遅いと言われ、タイマーで時間を図られてしまう。

やってほしいと言われたこともテキパキできない、持ってきてと言われたものも早く見つけられない、自分は無能だと責めていました。

家に帰ると「辞めたい」と大泣きし、仕事の日が来るのが怖い、休みの日も1日中仕事のことを考えてしまうことが続きました。

そんな日が続いたある日、出勤の電車で感情のコントロールができなくなり、涙が止まらなくなりました。

この症状は段々と酷くなり、業務中にも涙が止まらず、トイレに駆け込むことが増えていき、この環境から逃げたいという気持ちから1ヶ月で退職をしてしまいました。

無気力な毎日、これからどうする?

学生時代は不登校などの問題はなく過ごしていたし、成績も悪くない方。

そんな私が新卒を1ヶ月でやめてしまい、「普通」だと言われていたルートから外れてしまった、無駄に高いプライドはズタズタでした。

会社を辞めてから1ヶ月ほど経ったある日、「好きなことをしたい」「会社という組織は自分に合わない」と感じ、「何かしないと・・・」という焦りからフリーランスとして活動することを決意しました。

フリーランスには経歴が必要だった

フリーランスになり、微々たるお金は稼いでいましたが、一人で生活できる金額ではありませんでした。

会社で働いていた時に比べると、「自分のペースでお仕事ができる」「好きなことに関われる」という点では心地よい環境でした。

しかし「これからフリーランスで活動していけるのか」「もしお金に余裕がなくなったら・・・?」と考えたり、周りと比べ、社会人経験がないことへの不安や不年を取ることへの焦りがありました。

第二新卒での就職を目指すが・・・

フリーランスの経験から経歴の必要性を強く感じ、第二新卒での就職を目指すようになりました。

就職エージェントと面談をしていく中で、自分の問題点に気づきました。

それは「メンタルが不安定である」ということです。

1社目での通勤中に感情のコントロールができず、涙があふれてきてしまうことがずっと心に引っかかっていたので、心療内科を自分で探し、受診。

当時は心療内科を受診することに少し抵抗がありました。

「ただの甘えなのではないか」「障害はなく無能なだけかもしれない」それを知るのが怖かったです。

でもその気持ちより、「こうなってしまった原因を明らかにしたい」「障害名が付くことで、自分の努力不足以外の理由を探したかった」のだと思います。

そして医者の判断で、今の状態での就職活動は辞めた方が良いと、ドクターストップがかかり、第二新卒の時期が終わってしまいました。

本格的に療養スタート

病院に通い始めて、半年ほどたったある日、主治医から心理検査を勧められます。

それまではうつ・社交不安障害という診断でしたが、根本にある原因は違うかもしれないという話を聞きました。

そして、心理検査とカウンセリングを受け、今までの状況から「広汎性発達障害(自閉症スペクトラム障害)」という診断を受けました。

当時の気持ちとしては「まさか私が・・・」という驚きと「やっぱり原因があったのか」という安堵感が入り混じった不思議な感情でした。

またそれと同時に「なぜずっと分からなかったのだろう?」という疑問が生まれました。

これは主治医の先生の意見を踏まえた上での私の考えですが、「頑張れば周囲の人の真似ができてしまうので、問題が表に出にくかった」という結論に至りました。

学生時代も頑張って周囲のまねをして、女の子特有のコミュニケーションの中でも相づちのタイミングや共感の仕方など、無意識に習得していたのだと思います。

授業も同じで、教科書を覚えればいいだけ・公式を暗記すれば解ける定期テストでは、成績が良かったので、先生たちも気づかなかったわけです。

この時、今まで生きづらいと感じていたことがどのような流れで起きていたのかが腑に落ち、無能というレッテルから解放された気分でした。

周囲には家族のみに自分が発達障害だということを打ち明けました。

家族は初めは驚きはしていましたが、悲観するといった反応より「原因が分かって良かったね」と前向きな反応だったと記憶しています。

障害者手帳を取得する

主治医から「社会人経験が少ないため、障害者雇用で就職をし、少しずつ社会復帰をした方がよいのではないか」というアドバイスをもらい、「障害者手帳」を取得することに決めました。

障害者手帳を取ることで「障害者だと認識されてしまうんだ」というマイナスの感情はありましたが、主治医の意見に納得していたので、取得して後悔はありません。

病院から就労移行支援を紹介してもらう

通院から約1年経った頃、体調が安定してきたと主治医が判断し、病院から「就労移行支援」の制度を紹介してもらいました。

会社に通うことの練習ができ、就職活動のサポートまでをしてくれるということだったので、すぐに通うことを決めました。

当時の心境としては、「よく分からないので、とりあえず先生に従ってみよう」という気持ちが強かったです。

求人数が多いvs訓練の質が高い

私が事業所を選ぶ時に3つのことを重要視していました。

・不安が強いので、すぐに相談できる環境はあるか
・学びたいスキルを学ぶことができるか
・訓練している人の年齢が同世代である


これらをもとにいくつかの就労移行支援事業所へソーシャルワーカーさんと一緒に見学に行き、最終的に2つの事業所に絞られました。
※ソーシャルワーカー:社会復帰のために相談にのってくれるスタッフ。私の場合は病院に常駐していた。

1. 事業所から紹介できる求人数が多いが学ぶスキルのレベルが低い
2. 事業所から紹介できる求人数は少ないが学びたいスキルを学べる


見通しを立てるのが苦手な私は、ここで白黒思考を発揮してしまいます。

求人が多いところではないと社会人経験がない私は就職できない、周りをまたがっかりさせてしまう(がっかりしたと言われたことはない)と。

このことを主治医などに相談した結果、「訓練を続けること」を重点し、「事業所から紹介できる求人数は少ないが、学びたいスキルを学ぶことができる」事業所を選びました。

もしこの時に主治医のような第三者の相談にできる環境がなければ、周りをがっかりさせないようにしなければいけないと考え、「紹介できる求人が多い事業所」を選び、訓練を続けることができていなかったかもしれません。

社会復帰の第一歩!就労移行支援に通い始める。

就労移行支援に通い始めるのですが、今まで昼夜逆転だったこともあり、体力を考慮し、週2日から訓練をスタートしました。

パソコンスキルを学び、少しずつやれることが増えるのは楽しかったです。

しかし朝の決まった時間に起床し、準備をするという過程はとても苦痛で、正直この訓練を続けて、動ける時間は増えるのかと疑問に感じていました。

当時はwebデザインに興味があったので、訓練の中でデザインやPhotoshop・illustratorなどのスキルを学び、人に相談・報告することに慣れる練習をしていました。

週5日の訓練へ:挫折を経験。

通い始めて半年ほど経過した時に、週5日の訓練に移行しました。

徐々に週の訓練日数を増やしていき、最終的に週5日に慣らしていきました。

少し疲れているけれど、訓練後にもまだ余力があるという状態になるまで、週5日の訓練してから1か月はかかったと思います。

訓練内容は引き続きwebデザインに関連する模写やHTML、CSSなどを学び、働くことへの不安事項や自分の特性の対策を相談をしていました。

順調に訓練をしているつもりでしたが、webデザインの勉強をしていく中で壁にぶつかります。

それは、「答えがない」という壁です。

デザインの勉強は、デザインのルールを学び、学んだ技術をすぐに実用できるので、面白かったです。

しかし意図を汲み取ることが苦手だった私にとって、クライアントの求めていることを把握し、デザインを考えることは難しく、webデザイナーとして正解がない世界で続けることができるのかということに不安を感じてしまいました。

そのことに気づいてから、私は「正確さ」の方が得意である、「仕事を続けること」に重きを置いた時にwebデザイナーは続かない、苦手を続けても得意な人には負けてしまうと思い、webデザインを諦めることを決意しました。

当時の気持ちとしては、webデザイナーを諦めることの悔しさよりも「正解がない世界」から抜け出せた安心感の方が大きかったです。

その後「正確さ」を活かすことができる、Excelを中心とした事務職のスキルを学ぶことに。

そうは言っても未練はあって、「逃げなのではないか」「楽な道に流されている」と自己嫌悪が現れることも多かったです。

障害者雇用枠の葛藤。

主治医からの障害者雇用での就職を勧められていたので、当然障害者雇用での就職を目指していました。

ですが、障害者雇用の求人を見て唖然とした記憶があります。

なぜなら

1. 職種が限られている
2. 給料が低い
3. 在宅ワークがほとんどない


からです。

「給料が低い」ことは勤務時間や障害の配慮があるので、理解ができましたが、職種が限られている部分は割り切るのに苦労しました。

なぜかというと、人生の大半が仕事に取られるのだから、好きなことや興味があることに関わりたいという考えは大きく変わっていなかったからです。

そのためいつものように白黒思考を発揮し、興味がある職種や業界でなかったら、「普通」のルートから外れてしまっている人生に希望が与えられることはないと考えていました。

心地よい環境を探すことにシフトチェンジ

今までは好きなこと・興味があることに関わることができないと意味がないと考えていた私ですが、就労移行支援で開かれた講義で「マズローの欲求5段階説」という理論を知り、考えを改めることができました。

簡単にマズローの欲求5段階説について説明すると、人間の欲求を「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5つに分かれていて、下の階層から欲求が満たされていくという考え方です。

就労移行支援に通っていた私は、「生理的欲求」「安全の欲求」は満たされている部分は多かったですが、どこかに所属し、安心感を感じる「社会的欲求」や存在価値を認めてもらいたい「承認欲求」は満たされていないのに、一番上の階層である「自己実現の欲求」を満たそうとしていることに気づきました。

それからはまず、「社会的欲求」「承認欲求」を満たすには、何が必要かを考え、「集団に入り、社員を大切にしていて、しっかりと評価してもらえる会社に出会う」ということが今の私に必要なことだと思いました。

好きなこと・興味のあることをやりたいと先走るのではなく、まずは「心地よい環境を見つけること」を目標に就職活動をしていくと決心がつきました。

いざ就職活動へ:2ヶ月で就職活動が終了!

不安材料は消し、できる限り準備は終えていたかったので、書類はいつでも提出できる状態にして、就労移行支援の紹介求人とハローワークと障害者雇用就職エージェントを利用し、仕事を探していました。

とにかく不安が強いので、エージェントが「なかなか受からない、10社出して1社書類通過する程度」と言っているからと、よく分からないまま何十社も書類を提出していました・・・

慣れない面接で心身ともに疲れても、新卒での就職活動とは異なり、支援員の方や主治医などに相談できる環境が常にあることは、安心感につながりました。

また新卒の時は選んで”もらう”ことに必死で、他の人よりいかに優れているのかを評価されなければいけない、会社は自分より上の立場だと思っていました。

ですが支援員とお話をしていく中で、会社と自分は対等な関係で、不採用でも自分の存在価値は低くならないことを学び、それからは面接は自分を知ってもらう場だと認識するように心がけ、就職活動を行いました。

ただ学生時代のように「問題ない子」を演じるのは得意なため、明るい人であるように振舞って、面接官との印象と本来の自分とのギャップに苦しめられることもありました。

内定ゲット!しかし理想の求人に出会う…

就職活動をはじめてから約1ヶ月半、1社内定をいただくことができました。

内定をもらって嬉しい気持ちより、1つでも自分を受け入れてくれる会社があるという安心感の方が強かったです。

安心したのは束の間。

数日後に就労移行支援から私が以前から興味があった職種で理想と挙げていた条件とほぼ同じ求人を紹介していただきました。

いただいている内定を蹴るか、内定が出る保証はないが理想の求人を受けるかの究極の2択で、気が狂いそうになった記憶があります(笑)

内定をいただいてる会社は大手だったこともあり、家族がもしこの内定を蹴ったら、がっかりするのではないか、家族は大手を望んでいると思い(一言もがっかりする、大手の望んでいるなどは言われていないが)、内定をいただいている会社に入社しようかと考えていました。

支援員の方、家族や主治医に相談し、「理想の求人に出会うことなんてほとんどないんだから、やってみなさい」とアドバイスをもらい、いただいた内定を蹴って、やってみたかった方の面接を受けることになりました。

一か八か、結果は?

結果は無事に内定をいただくことができました。

ずっとやりたかったことで、一時期は「心地よい環境を見つける」と割り切って、就職活動をしていましたが、やはり心のどこかでは諦めることができていませんでした。

この会社が現在の職場であり、理想的な働き方・心地よい環境であり、興味があることに携わることができていることは本当に恵まれていて、行動して良かった、諦めなくて良かったと強く感じています。

現在:ずっと憧れていたマーケティングへ

現在は障害者雇用で週5日の時短勤務から就労をスタートしています。

マーケティング部門に所属をし、ライティングやデザインなどの業務に携わり、人をどのように動かすのか、興味を持ってもらえるかを考えることがとても楽しいです。

新卒カードを捨ててしまい、後悔でいっぱいだった自分や「普通」から外れてしまい絶望していた自分に今の姿を伝えたらきっと驚くのではないかなと思うくらい、ここ数年で自分の思考や生活が変わりました。

これからは他人の評価ばかりを気にしないで、自分の感じたことを否定せず、まず自分に優しくして、周囲の人を大切にできる人になりたいです。

将来:自分を大切にしていきたい

今後は「自分が傷つくのが怖いから、回避する」「他人がどう思っているかが選択基準」ということをやめて、「自分はどうしたいかを考え、行動できる人」になっていきたいです。

そして、仕事では4つのことを実現させていきたいです。

・フルタイムで働けるようになりたい
・数をこなしながら、完読してもらえるライティングを行いたい
・ライティング×デザインができる人になりたい
・SNS運用など幅広いマーケティングを学び、多くの人を動かすコンテンツ作りができる人になりたい


プライベートでは、5つのことを叶えていきたいです。
・4か国語話せる人になりたい
・海外で生活したい
・動物保護活動をしたい
・自分の心地よいと思う環境の家に住みたい
・自分の稼いだお金で自分に投資したい

まとめ

「なんとなく生きづらい人生を歩んでいたけれど、学生時代に目立った問題がなく、それなり真面目に頑張っていたのに社会に出ると、そんな努力は無駄に思えて自己肯定感は最低。」それが私でした。

ですが、就労移行支援に通って周囲の人に支えてもらいながら、自分と向き合い、得意や苦手を知って、相談をする大切さを学び、仕事でも少しずつできることが増え、自信がついてきました。

フリーランスでの経験や就労移行支援でwebデザイナーになろうと勉強していた時の知識は、今の仕事で活かすことができているので、当時意味がなくなってしまったと自責した経験も無駄ではなかったのだと実感しています。

この記事を読んで、少しでも参考になれば嬉しいです。
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